6/3東京芸術劇場 ヨハネ受難曲

2024年05月25日

私はこの「ヨハネ受難曲」に合唱で参加する一団員です。今回は学び直しの気持ちもあり、練習だけでなく自分なりに取り組んでみようと勉強の為に本を1冊読むことに決めました。キリスト教の信仰を扱う本で私に読めそうなものはないかと本屋の書棚を巡っている時にふと思い出したのは遠藤周作の「沈黙」でした。このたった1冊手のひらサイズの文庫本の中身は想像以上にずっしりと重い内容でした。(切支丹禁制の日本に潜入し背教に追い込まれた若い司祭、キリスト教弾圧側の人間、ユダのような裏切りを繰り返す卑屈な信徒、厳しい迫害の末信仰を捨てずに命落とす信徒等が登場します)

ヨハネの練習では、イエスを裏切ってしまう弟子たちが登場する場面にバッハが付けた音楽やレチタティーヴォ、イエスの言葉、コラールの解釈など郡司先生の深い考察や訳に多くの時間をかけ繰り返し話して下さいました。「沈黙」読後はそれまでのキリスト受難とは違い、どこをとっても「沈黙」で描かれる内容と重なり、先生のお話がより多く理解できたような気がしました。

神の「救い」はあらわれないし沈黙のまま。戦争・殺戮はなぜ繰り返されるのか。信者の祈りは神にとどくのか。そもそも神は存在するのか等々私にとっては考え始めたらきりがないのです。(知りたい欲求が強すぎて「認知革命」というワードまで拾ってしまいもうお手上げです)キリストの受難曲は途方もなく深淵で数回の本番では解り得ないと感じます。私は欠席回もあり決して優等生ではなかったのですが、今回のヨハネ練習や「沈黙」を通して私が思った事は強い信仰のみが善ではなく、ユダやペテロのように弱い者にこそイエスは寄り添うという視線が「ヨハネ受難曲」に流れているのではないかということ。まるで仏の慈悲に通じるみたいです。

本番では指揮者郡司先生そしてソリスト、オーケストラの楽器が奏でるバッハの音楽に様々な答えを見つけたいと思うのです。大勢の合唱団員の中には私のような稚拙ですが自分なりに勉強したヨハネを歌うこんな団員もひとり埋もれています。

遠藤周作「沈黙」より抜粋(司祭が踏み絵を踏む場面)~その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。~