郡司博が語る『マタイ受難曲』

2022年05月23日

『マタイ受難曲』

■公演2022年10月16日(日)13:30開演(予定)新宿文化センター大ホール

■指揮 郡司博 

■エヴァンゲリスト 西山詩苑 ■イエス 原田光

■ S:渡邊美沙季 A:後藤真菜美 T:頓所里樹 B:小河佑樹

■管弦楽オラトリオ・シンフォニカJAPAN

■合唱東京オラトリオ研究会 欅の会 

■賛助出演東京ライエンコーア シュティーエンバッハコーア


郡司博が語る『マタイ受難曲』

マタイ受難曲は、独唱と合唱が構成する。聖書の言葉はエヴァンゲリストのレチタティーヴォが歌う。イエスを裏切るユダ、ペテロ、ローマ総督ピラトを配し、さらにピカンダーとバッハの共同創作による4パートの独唱者のレチタティーヴォとアリア、民衆の合唱、コラールがそれぞれの役割を担う。

ピカンダー/バッハのやり遂げた仕事は秀逸である。

  • イエスを死刑に陥れようとする偽証に黙秘を続ける、

  テノールの 》Geduld 《

  • ペテロの後悔の場面、

  アルトの 》Erbarme《

  • 扇動された民衆がピラトに死刑を求める場面でイエスはいったい何をしたのかという問いに、

  ソプラノの 》Aus Liebe《

  • 私もその十字架を担ごうと、

  バスの 》Komm,süßes Kreuz《

  • イエスの絶命には、心の中にイエスを埋葬しようと、

  バスの 》Mache dich《

これらのアリアを配することで、淡々と語られる宗教的真実を、キリスト教徒に限らず誰にでも自分のこととして捉えるようバッハの音楽は促す。


大工の子としてマリアから生まれたイエスは、ローマ帝国の絶対的支配下で生涯をかけ、神が全ての人間に向けた=慈悲=を伝えるために語り続けた。特にそれは貧しい人々、抑圧された人々にむけられていた。ユダの密告、ペテロの裏切り、ユダヤ教の実権を握る人々による捕縛、そして嘘の証言や実権派に扇動された民衆の狂乱の中でゴルゴダへの道を十字架を背負う。

イエスは怯むことなく歩んで行く。それを見た全ての弟子たちは、闘わないイエスを神の子ではないと確信し、一人残らず去っていく 。そんな時、何人かの女たちだけがイエスを見守るのである。

これが福音書において、今日の私たちに語り継がれているイエスの受難の顛末である。

バッハがこの作品を書いた時も、プロテスタントとカトリックの壮絶な戦いである三十年戦争の矛盾が残っていた。ピカンダーはその社会を直視しそこから発想を得、詩を書き、 バッハが音楽にしたのである。それが歌われる時、そのシーンがリアリティをもって今の私たちにも語りかける。それはイエスの生き方またバッハの生き様をも示している 。

私たちのようなアマチュア合唱団は、このマタイをどう歌い継いでいったらよいのだろうか。


今年喜寿を迎えた私に残された時間は多くない。何かしなければならない。今、これまでの「怠慢」 への「反省」につき動かされている。

バッハの『マタイ受難曲』といえば、宗教音楽史上最高峰の作品である。美しい音階とドイツ語の織りなす調べに魅せられ、これまで幾度も演奏にかかわってきた。しかし作品の偉大さを認識するあまり、海外の指揮者やソリストに頼り、彼らから学ぶだけでしかなかった。大作ゆえに主体性を欠いた怠慢があったと思う。

私が最も薫陶を受けたのは、ハンス=ヨアヒム・ロッチュ氏(1929-2013年)である。ロッチュ氏はバッハと同じ聖トーマス教会のカントール(音楽監督)を20年(1972-1991年) 勤めている。東ドイツ時代のシュタージュ(秘密警察)への協力者としてドイツ国内での音楽活動を禁止されていた彼を日本に招聘するにはいい機会だった。なにより私達が楽しく歌えるようになり、バッハ理解の大いなる助けとなった。 ロッチュ氏の言葉、指揮をする姿に目からうろこが落ち、それを盗み、学んだ。私のことを親しみを込めて「Mein Sohn(私の息子)」と呼んでくれた師は、もういない。もう一人忘れてはならない人に磯山雅氏がいる。バッハ研究を真摯にやり遂げその成果は国際的評価も高い。立川のカンマーザールでも市民講座を開き多くの愛好家が集っていた。その磯山先生ももういない。

今年10月に演奏会を開くマタイ受難曲は、おそらく私にとって最後のマタイとなる。これまでの学びと真似だけで終わらせたくない決意であらためて楽譜を読み直してみた。


これまで読み込んだと思っていた歌詞だが、テノールによって歌われる40番/レチタティーヴォ、41番/アリアにおいて、新しい気付きを得た。

捕われたイエスは偽りの告発を受ける。大祭司カヤパに事の真偽を問われるがイエスは黙して答えない。黙秘である。この場面をイエスの不確定さや無抵抗と捉えていたが、これは権威や支配者に対する無言の抵抗であり、権力に対する強さであると考えるようになったのだ。後の世界で基本的人権のひとつである=黙秘権=にもつながる発想がここにあると思えるようになる。イエスが無言で立ち向かう姿には、あらゆる権力に対して人間、個人は自由であるという現代につながる思想がうかがえる。黙秘の場面が解きほぐれると他の場面でも、現代の私たちに共通するテーマが見え、期待が膨らむ。300年前の美しい音楽が現代に於いても輝いている。今日生きる自分と、自分の属する世界の問題をも理解するヒントがこの芸術作品の中に埋蔵されている。音楽的にはロマン派から後期ロマン派に通じる先見性に富み、中でもレチタティーヴォにおいては現代的なスタイルをも感じる取ることができる。ピカンダーの創作詞による器楽付レチタティーヴォがイエスに迫る事態の有り様を我々に問う。そこから導き出されるアリアは無類に美しく悲しい。人間の中にある「罪」が、イエスを見つめることで本来の人間性をとりもどそうとする神と人間の共同作業を見て取ることができる。


300年生き続けるマタイ受難曲の普遍的な美の真実を余すところなく知りたい。それをもってこの作品に向き合うことを今の私の課題としたい。最後のマタイで難題に直面することになったが、私はこれを150人の歌う仲間と楽しみたい。


心休まることがない厳しい世の中で、この取組に参加してくれた若い有望なソリストたち、ロッチュ先生からも厚い信頼を受けたプレイヤーともに公演までの5ヶ月を、大事に過ごしていきたい。