私の話と、モーツァルトの話 渡部智也
今回『後宮からの誘拐』の舞台演出をします渡部智也です。演出は本業ではありませんので『演出・台本 渡部智也』などと書かれますと申し訳なさでいっぱいなのですが、やるからにはお客様がこのオペラのお話にすっと入って、一緒に楽しんでいただけるような、そんな舞台にしたい!と思っています。
これから本番までに何度か投稿いたしますが、まずは私の話を少しとモーツァルトの話を。
私が音大の声楽科を卒業してすぐ、先輩の指揮者に誘われて、自主公演でたくさんオペラに出演しました。自分たちで手作り公演でしたので、チケットを売るのも大変でした。結局あまり売ることができずにお客様はいつも友達が数人。『魔笛』などの人数の多いオペラの時は、お客様より出演者のほうが多い...なんてこともありました。合唱団なんてものはありませんでしたので、合唱も全部歌います。私は音大でもあまりオペラの経験はありませんでしたので、演技なども見様見真似のまさに大根役者。稽古では歌に合わない変な動きをしたりして、キャストの皆さんに笑われたりもしましたが、経験ある先輩方にアドヴァイスをいただいたり、あーでもないこーでもないとみんなで話し合いながら作っていった経験は、音大を出たての不安もある時期でしたが、忘れられない思い出でもあります。
特に私をオペラに誘ってくれた先輩の指揮者は、稽古の後の居酒屋でお酒を飲みながら、いろいろな話を聞かせてくれました。その中の一つの言葉は私にとって大事なものになっています。「智也はなにか表現しなきゃとか、なにか歌わなきゃと思っているだろう。モーツァルトのオペラは、どう表現すべきかが全部音符になっているから、その通りに動けばいいんだよ。そしてそれはいい声で歌えるようになっているんだよ」。その指揮者の言葉を裏付ける一文が、モーツァルトが父親に送った手紙の中にあります。「後宮からの誘拐」に登場する、低音が特徴的なバス役のオスミンについて書かれた文を紹介します。
『オスミンの怒りはコミカルなタッチになります。~誰が何といおうと、彼(オスミン役のバス歌手)の見事な低音がきらめくようにしました。~オスミンの怒りがつのって、アリアがもう終わるだろうと皆が思うときに、テンポこそ同じですが、まったく別の拍子と調になります。最良の効果をあげるに違いありません。なぜならひどく怒っている人間というものは、あらゆる秩序、節度、限度を踏み越えてしまうもので、自分がわからなくなるからです。音楽だって自分で自分がわからなくなるに違いありません。ですが、激しかろうとなかろうと、情緒というものは聴く者が嫌悪を催すほど表現すべきではありません。いくら恐ろしい場面でも、音楽は決して耳を害するようではあってはならず、耳を楽しませなければならないのです。』※名作オペラブックス11より
モーツァルトは、登場人物の行動ならびに、その心中の感情の動きを完全に自分の音楽に取り込み、そこに真実味を持たせることができた作曲家であったといわれているのが良くわかる一文だと思います。
さあ、これからオペラの稽古が始まります!訳も分からず必死にオペラをやっていたあの頃の自分に「今度、『後宮からの誘拐』の演出するんだぞ!」って言ったら驚くだろうなあ(笑)
渡部智也ホームページ