指揮 郡司博
指揮:郡司 博 プロフィールはこちら
フォーレ『レクイエム』の企画は8/26の夜公演ということで以前から決まっていましたが、具体的な内容(練習する団、曜日、会場、日程他)が未定のままでした。11月下旬そろそろ募集をと動き始めていた矢先、12/8から郡司先生の手術・入院・療養という事態になりました。「12月中には内容が決められるようにできるところまで進めておくように」との指示を受け、初回日程、指導者との連絡、そして会場取りは担当の方に手助けいただきながらなんとかフォーレの準備を進めました。(実はこれまでは団の起ち上げに関して自分ひとりで決断することはなかったのです。)手術が終わり数日後に無事集中治療室から生還した先生が、病室から本当に驚くほどか細い声で「フォーレの日程は決まったか」と電話をしてきたのです。これはもう、、なんとしても8月本番に向け「フォーレレクイエムを歌う会」を形にして3月に始動する以外ないと思いました。そこから2、3の事柄が決定し無事募集チラシを印刷することができました。準備にご協力いただいた小河先生、玉山先生他関係者の皆様有難うございました。
ここでは指揮者のプロフィールを掲載する予定でしたが、それよりも現在先生ご自身が広く「ご報告」している以下の文章がより良いと思いますのでこちらにも掲載致します。どうぞお読みください、フォーレレクイエム指揮者の「ご報告」です。
ご報告
若い頃より心臓に持病があるのは指摘されていたことですが、今年9月の検査の折、大動脈瘤弁置き換え術が急務であることがわかりました。病院側との日程調整の結果、手術がミサソレムニス公演日の前々日となり、皆様に大変心配をおかけいたしました。手術が終わり、集中治療室(ICU)で麻酔から覚め意識を取り戻したとき、録音されたばかりの演奏「ミサソレムニス」を聴くことができました。
寺本氏が紡ぎだす音楽はステージを越え会場全体を包み込み、今ベートーヴェンがそこに生きているような臨場感あふれるものでした。Benedictusで奏でられるヴァイオリンは、ベートーヴェンの中に宿る音楽の神が現れたかと見紛う美しさで、涙で枕を濡らしていました。
指揮者とオーケストラの関係は信頼と尊敬によって結ばれていました。合唱は一人一人が自立し、完成度の高い、一体感とバランスのとれたもので、かつてこのような演奏を聴いたことがないと思えるほどでした。そして特筆すべきは若いソリストたちです。彼らの演奏は絶賛に値すると思います。まだ経験の浅い彼らがプレッシャーに打ち勝ち、自らをも表現しました。ソプラノの見角さんは彼らを巧みにリードし、その重責を果たしてくれました。
もし私がこの演奏をホールの中で生で聴くことができたなら、立ち続けることは不可能だったでしょう!
このミサソレの2ヶ月前の10月には、エヴァンゲリスト西山詩苑、イエス原田光という若い逸材と共に、「マタイ受難曲」を演奏しました。自分の年齢や病気のことを考えると私にとって最後のマタイになるとの思いもあり原点から学び直しました。合唱指導者としての役割と責任を果たせ、安堵と達成感で満たされています。
マタイとミサソレ、この2つのコンサートは合唱指揮者生活55年の歴史の金字塔であり、私はこのコンサートを未来志向「郡司博55年目からの軌跡その1」と名付けました。またこれほど褒めていただけたコンサートは初めてでした。ここから「一家に一枚オラ研マタイDVD」の標語が生まれたのです。ミサソレも追加です。
ここで少し私のことを話します。
今となってはいい思い出となってしまいましたが、ヴァイオリン弾きだった無二の親友が、急逝した私の父親の葬儀でプレイヤーのボリュームを限界まで上げ近所への迷惑も考えず、ベートーヴェン3番の『葬送』のレコードをかけてくれたのです。親友はその10年後不慮の交通事故で幼い息子二人を残して死んでしまいました。
その後、私は合唱指揮者として自立を目指しました。曲目やキャスティングをめぐって対立することも多くなりました。演奏曲目について意見の違いから組織性を重視する本番指揮者や合唱団から、合唱指揮の仕事を解雇され、裏切者の烙印押されたこともありました。音楽上のことならまだしも、組織も持たず音楽活動の夢を広げていただけで首を切られるなど、絶対にあってはならないことだと奮起し、自分で合唱団を作ろうと思い立ちました。「合唱団員募集」のポスターを電信柱に貼り警察に連れて行かれたこともあります。経験の浅い若い合唱指揮者にとって、合唱団や指揮者から解雇されれば、ポスターやチラシを配る以外に方法はなかったのです。
その頃から、私は合唱団員と共に歌い、作り上げる作品の全てに愛おしさを感じ、夢と希望を持ち始めたのです。
25年間続けた新宿文化センター主催によるコンサートでは、指揮者は毎回著名な指揮者を海外から招聘し、曲目も後期ロマン派の作品を中心におき、すべて東京都交響楽団との共演でした。10年間かかわったJVC日本国際ボランティアセンターのベネフィットコンサートでは、指揮者、ソリストを日本の航空会社とホテルの協力を得て海外から迎え、私も何度かその交渉の大役をかって海外に出向いたこともありました。
ミレニアム2000年の直前、新星日響&東京フィルハーモニー合併への動きが始まりました。私は新星日響財団の評議員でその合唱団の指揮者でした。楽団からの話ではなく、ある朝突然新聞発表で知ることになったのです。「この合併は対等であること」と「新国立劇場管弦楽団になる方向」での合意のもと合併となったのですが、現在では財団の名前から"新星"の名は消え、新国立劇場管弦楽団のことを語る者は誰もいなくなりました。当時の担当者にこの事を詰問してもなんら答えが返ってくることはありません。このことを裏で支えた文化庁の担当者は、某音楽大学の幹部に天下っていました。
今回のコロナ禍では、合唱団員1人1人にキャビン型シンガーシールドを使って、感染者を広げない対策を講じ練習を続行しました。合唱団員を激減させることなく、また逆にコンサートの数を増やすことになりました。
この4ヶ月間、私は二つの大規模なアマチュアオーケストラとマーラーの交響曲をそれぞれ共演しました。その高度な技量と謙虚さ、積極性に圧倒されました。また別のところでは、アマチュアオケの好演を聴く機会に恵まれました。長年地域のオペラ活動などに貢献し、今やなくてはならない存在に成長したアマチュアオケです。古谷誠一さんが指揮するチャイコフスキーの4番は、新しい夜明けすら感じさせ、世界中どこに出しても通用する音楽の普遍性がありました。今最も活躍する若手ヴァイオリニスト高木凜々子との共演はこの時ならではの白眉の演奏でした。若い演奏家の活躍は、私たち歳を重ねた音楽家たちの最大の活性剤となっています。
忘れられない音楽家に、ハンス・ヨアヒム・ロッチェがいます。1989年の歴史的事件、ドイツ東西統合のなかで、東時代の責任を問われて生涯ドイツでの演奏活動する権利を奪われていました。私はライプチィヒのトーマス教会近くのご自宅を訪問し、日本での活動再開を要請しました。世界ダントツのバッハ音楽のレコーディングを誇り、トーマス教会の子供たちと全世界をめぐりバッハ音楽の普及に努め、日本でも度々名演奏を聞かせていたロッチュが、我々の合唱団指揮をしてくれることになったのです。それからの日本への招聘は10数回を超え、演奏会は30回に及び、それはライプチィッヒのお墓に眠る前年までつづいたのです。私たちの墓参りはまだ終えていませんが、彼を慕う人々が「ロッチェメモリアルコーア」を設立して毎年春に白寿ホールで演奏会を開き、2年後にはロッチェ思い出の「ロ短調」に挑戦するといいます。
この数年、新しい出会いと音楽の広がりを実感でき、希望と夢のある新年をむかえられそうです。
この度の心臓の手術は、これまでに経験した胃がんや喉頭がんの痛みや苦しみと全く異なり、想像を絶するものでした。その苦しみから徐々に解放されていく頭の中に走馬灯のように現れたのは、55年の合唱活動でした。その中には献身的に合唱団の活動を支え手伝ってくださった方々、遺産の一部を寄付してくださった方々の顔もありました。ここ数年「NPOおんがくの共同作業場」の理事辞退を考えておりましたが、撤回することにしました。激痛と苦悩を経験し、精神的錯乱の一歩手前までいったのです。それを乗り越えたからには、このまま終わらせてはいけないと思いました。もう一度原点に戻り、皆さんとともに合唱発展の道を進む決意を固めました。
個人的なこととは思いましたが、これまでの人生での忘れがたい思い、葛藤など心の中の一部を吐露することでその決意を知っていただきたく、このご報告を書かせていただきました。より多くの人の参加によって NPO おんがくの共同作業場の活動が広がり、合唱をすることの喜びが日常である文化的日本となるよう残された命を使うつもりです。
2022年12月22日退院の日
合唱指揮 郡司博