マーラー『嘆きの歌』について 郡司博
郡司先生よりメッセージが届きました
■マーラー『嘆きの歌』 練習を始めるにあたって 郡司博
有調なのか無調なのか?
調性感の継続しないその音楽は、伝統を重んじるブラームスらから無視される。だが音楽史上実に斬新なアイデアに溢れる作品が誕生してしまったのだ。しかし、何より革新的だったのは、美の象徴、讃美の対象として そこに あるはずであった神がそこにはいないことだった。神をなくして音楽は成立するのか?何を対象に作曲したらいいのか?マーラーは易々とその答えを出してしまった。
人間のなかに潜む悪魔と天使。それは人間であるべき姿なのだと。人間というものは、清く美しく思いやりに満ちた行動をとることもあるが、ずる賢く奪い、殺し、極悪非道に走ることもある。すべて人間である故の行為なのだ。良くも悪くも人間は計り知れない可能性をもつ。そういう人間に光をあてるべきだとマーラーは言いたかったのか。
『嘆きの歌』の歌詞はグリムの「歌う骨」などをもとにマーラー自身が手がけたものであるといわれる。心優しい弟と忌まわしい言葉をはく兄。二人の兄弟が絶世の美女である王女を巡り赤い花をさがす旅に出る。物語はやがて兄の弟殺しにまで発展する。鮮烈でとんでもない内容の題材が音楽界を蹂躙する。神の栄光、恩寵を讃美したい私たちはどうしたらいいのか?神の与えてくれる平和に満ちた美しい世界はどこへ行ってしまうのか?音楽の役割、立ち位置はどうなってしまうのか?伝統社会に生きる人々にとってはあるまじき革命だったのではなかろか。
若い人はいつの世も、おもしろくて刺激的なことが大好きだ。失敗も糧になるからか大胆にもなる。若いマーラーがどこまで意図的に『嘆きの歌』を世に送り出したかはわからない。初稿版完成の1880年以降2度にわたり大きな改訂を試みている。それは作品の精度をあげるためだったのか?、伝統社会に受入れられるための模索であったのかも。巨匠ノイマンの元で 40数年前 はじめてこの作品に 取り組んだ時と今の私は 何も変わってない。私は 一歩も進まず成長していなかったのだ。
決定稿のないまま作品はこの世に残された。2023年12月の演奏会のための楽譜選択も決定稿ではないだろう。マーラーがなぜこの作品を生み出したのか、2度の大改訂はなぜか、23年指揮者井上の版の意図は何か、本番が終わるその時まで全国から集まるアマオケなマーラー愛好家ともに考え続ける。「おもしろい」試みと感じていただけたら幸いなのだが。
7月5日水曜日 午後2時から カンマーザールin立川 マーラー『嘆きの歌』合唱練習
指導:郡司博
2023年7月3日